『ドレミファ娘の血は騒ぐ』レビュー

世の中には、わけのわからん映画というのが存在する。
黒沢清監督の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985年製作公開)が私にとって、そんな映画だ。
二十歳くらいの時にたまたま深夜放送で観た。さながら実験映画のようだった。演劇的であると言ってもよい。

大学生の秋子(洞口 依子)が、東京の大学を訪ねる。郷里の先輩の吉岡を探しているのだった。吉岡が心理学科のゼミに参加していると聞き、キャンパスを歩き回る。
そこで出会った学生たちを取り巻きながら、いろんな場面に出くわす秋子。そのほとんどが、たわいもない乱痴気騒ぎなのだが、秋子には理解出来ない。
吉岡が教室で女子学生と裸で戯れているのを目撃した彼女は、吉岡に失望する。
そんな折、吉岡が在籍する心理学科の教授・平山(伊丹十三)から声をかけられる秋子。「君には恥じらいがある」と言って、僕の実験に君を使いたいのだと申し出る。
秋子もまた、どこか平山に心惹かれている。とってもわけのわからん展開で物語はすすんでいく。いや、物語と呼べるほどの何もないと言ってもいい。

秋子や平山含め、登場人物の話す言葉は観念的で理屈っぽい。そこに意味など求めてはいけない。洞口依子と伊丹十三以外のキャストはシロウトっぽいし、セリフも棒読みである。
よくこんな映画を作ったものだな、と思う。しかし、そこは80年代のディレクターズ・カンパニーだ。それっぽい作品になっている。
洞口依子が、すんごく可愛い。少女のような不思議な魅力がある。

この映画は、一種のモラトリアムを描いた作品なのかもしれない。私は、大学とは学びの場ではなく、遊びの場だと思っている。
私は大学には半年間しか通っておらず(のっぴきならない理由で中退した)、ほとんど授業にも参加していない。教室には行かず、学内で面白そうなところがあれば顔を出していた。
男の中につるんでいただけなのだが、そこには自由があった。
真冬でもタンクトップに下駄を履いてギターを背中に背負っている男、10年も留年しているという女がいたり、隣の学部で何か揉めているなと思ったら「どちらが未来のジョン・レノンになれるか」という議論で男子学生が本気で血みどろの試合をしている。そんな環境だった。
バスの中で岡本太郎の話をしている連中は、いつも大真面目だった。朝から晩までその話をしているのだった。そう、私たちはいつでも大真面目に❝遊んで❞いるのだった。
リアルを生きているのだけれど、どこか非日常。非日常をクリエイションしていくことだけが、退屈を笑い飛ばす方法だった。

私は、このわけのわからん映画を観るたび、引き戻されてしまう。あの頃に戻りたいとは思わないが、出来得る限り、精神は自由でいたい。そして、大真面目に遊びたい。
今、こんな映画作る人っていないんだろうな。想像力と創造力は一対なのだ。その中で、どこまでとべるか。そんな試みに満ちた作品だった。

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