『あちらにいる鬼』レビュー

封切りしたての映画を観に行った。私の好きな女優、寺島しのぶさんが主演だったからだ。

昨年、逝去された瀬戸内寂聴をモデルにした作家を寺島さんが演じるというのだから観ないわけにはいかなかった。

瀬戸内寂聴といえば、作家・井上光晴なのだが、それを豊川悦治が演じるという。一瞬、「え?トヨエツ?」と思ったが、観ておこうと思った。

原作は、井上光晴の娘である井上荒野の小説。自分の父と寂聴の不倫、そしてそれを見守った母の奇妙な三角関係。私はこの小説をまだ読んでいないのだが、大いに興味そそるものがあった。

豊川悦治の妻役に、広末涼子。とても豪華な俳優陣である。

瀬戸内寂聴にみなさん、どんなイメージをお持ちだろうか。

「子宮作家」。それがぴったり当てはまるのではないだろうか。

私と瀬戸内寂聴との出会いは、なかなか衝撃的だった。

中学生の頃、図書室に変な本が置いてあるということで大騒ぎになった。それが瀬戸内寂聴の『愛の倫理』という本だった。

その中には、自分の性の目覚めを赤裸々に語った一文があり(ここで引用するのはやめておく)、思わず皆が赤面してしまった思い出がある。

なぜカトリックの女子校にこんな本が置いてあるのか、すごく謎だったのだが。

井上光晴については、二十代半ばのとき、原一男のドキュメンタリー映画『全身小説家』を観ていたから、こんな男は嫌だなと思っていた。

自分のファンである女性読者をはべらし、好き勝手やっている。経歴も嘘だし、何もかもが虚構なのだ。井上光晴という大作家の、そんな虚を暴いたのが『全身小説家』だった。

映画は、寂聴が光晴と出会うシーンから始まる。お互いにもう仕事を持っていて、第一線で活躍する同士であった。

運命の出会いなのかなんなのかわからないが、そこに男女の情愛が生まれる。でも、光晴には妻子がある。それどころか、愛人もたくさんいる。

その愛人が自殺未遂を図ったり、子供を堕ろしたりするたびに妻が見舞いに行く。でも、妻は光晴と別れるつもりはない。新たな命まで宿している。

その妻が産気づいたときにも、光晴は妻そっちのけで寂聴との関係に耽っていた。妻は寂聴との関係にもちろん気づいている。でも、何も言わない。

そんな寂聴にも若い恋人がいたり、なんだかわけがわからない。光晴は、寂聴の家に平気で自分のファンの女性たちを連れてくる。そのファンたちとも寝ているのが光晴という男なのだ…。

寂聴はある日、決意する。それは、尼僧になること。光晴との関係を清算するために、出家するのだ。

二人は、寂聴が出家したあとも交流を続ける。しかし、それは男女ではなく、光晴の妻を含めた家族ぐるみの付き合いになった。光晴が癌で亡くなる1992年、死が直前に近づいたときに、妻が唯一病院に呼んだのは寂聴だった。

不思議な関係だが、これが事実だとするなら、一体どういうことなのか。私は頭を抱えてしまった。
男女の情愛というのは、実はよくわからない。

私は、なんとなく、好きな人がそこにいるという気配だけで満足してしまうから。そこに言葉とか肉体的な交歓はあまり求めていない。心地よい空気というのが好きだから。

女ってなんだろう。男ってなんだろう。性ってなんだろう。役割ってなんだろう。映画を観終わったあと、そんなことを考えてモヤモヤした1日だった。

「不倫でも何でもいいじゃない。人を愛しなさい」

ずっと一貫して、そう言い続けてきたのが瀬戸内寂聴だった。(私は不倫を否定も肯定もしないが)世の中には様々な形の愛が存在する。

それが倫理を超えたものであっても、他人に理解されない類のものであっても、当人にしかわからないものがきっとあるはずだ。

映画を観た感想としては、私は瀬戸内寂聴、井上光晴、その妻の三人の関係性はよくわからなかった。

わからなかったのだが、寂聴と光晴が情熱を燃やしたことはわかった。そして、それを見つめた妻の、尋常ではない、特殊な眼差しも感じた。

人間って、よくわからないから面白いのかもしれない。まだまだ踏み込んだことのない領域が、この世界に存在していると思うと、生きてみようという気になれる。どんな出会いがあるかわからないから、明日に賭けてみようという気になれる。そんなことを思った。

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