『トリコロール 青の愛』レビュー

愛とは、時に手放すことである。
クシシュトフ・キェシロフスキ監督のトリコロール三部作のひとつである、『トリコロール/青の愛』(1993年製作)を観た。
ジュリエット・ビノシュ演じる主人公のジュリーは、ある日ドライブに出かけた先で交通事故に遭う。
最愛の夫と幼い娘を失くした彼女は、深い哀しみと大きな喪失感を感じ、入院先の病院で自殺を図ろうとするが未遂に終わる。
夫は世間でも名高い作曲家であった。夫の遺した書きかけの協奏曲の譜面、大きな邸宅や家財道具を全て処分してしまったジュリー。
夫の仕事仲間であったオリヴィエを招き、一夜を共にする。オリヴィエはジュリーを愛しているが、彼女は彼を心から愛しているのかどうか、わからない。
新しいアパルトマンで暮らし始めると、そこには娼婦の女が住んでいる。娼婦の女との不思議な交流、事故に遭った時につけていた十字架のネックレスを拾った青年が現れたりしながら、彼女の生活は淡々としている。
そんなある日、オリヴィエが夫が書いていた譜面のコピーを持っていることを知る。そして、夫の愛人の存在が明らかになり…。

トリコロール三部作は、フランスの国旗が表す『自由・平等・博愛』をそれぞれテーマにしている。
本作は自由をテーマにし、映像世界は澄んだブルーを基調にしている。
それは深い哀しみのカラー、夫や娘との想い出が詰まったシャンデリアのガラスパーツや、ジュリーが口にする娘のために取ってあった飴玉の包みに表れている。
愛するものを失って、たった一人世界に残された彼女が手に入れたものとは。
夫の未完の譜面を埋めていく作業の中で、彼女は自身の哀しみを浄化したように思う。この映画のテーマは自由だが、手放しで好き勝手やる、という意味ではない。
愛における自由とは何か考えたとき、それは許すということ、受け容れるということなのかもしれない。そうして自分を解き放つことが出来たとき、それは愛であり、自由であるのではないか。

夫の愛人である女性にジュリーが会いに行く場面がある。
愛人は夫の子を身籠っていた。普通なら平静でいられないようなシュチュエーションだが、ジュリーは「夫が愛していたのはあなたなのね」と言う。
そして、愛人と生まれてくる子供のために、夫と住んでいた邸宅を譲り渡すのである。
ジュリーは何を思ったのだろう。私ならどうしただろう。同じようにしただろうか。
だって他に方法がないように思える。受容と寛容こそが愛である限り、愛がない限り、彼女は救われなかっただろうから。

映画のラストで彼女は涙を流す。そこにも深いブルーの色あいが滲んでいるかのよう。
オリヴィエと愛し合ったあとで一人流したその涙が示すもの。人は愛なしでは生きられないということ、哀しみと引き換えに許すことでやっと得られた解放だったのではないか。
この時代のジュリエット・ビノシュは個人的に好きだ。寡黙なイメージながら、やはり透明なオーラをまとっていて神秘的である。イノセントである。
静かな作品ながらも、ビノシュの魅力と美しい音楽、映像世界を感じてほしい。

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