『ある天文学者の恋文』レビュー

『ある天文学者の恋文』(2016年伊)を観た。
私の好きな俳優、ジェレミー・アイアンズが出演していたから観たのだが、正直身につまされる思いであった。観たことを後悔していると言ってもいい。
この映画は、ジェレミー演じる天文学者とその教え子エイミーが織りなすミステリーのような愛の物語である。
ジェレミーには家庭があり、エイミーとは秘密の恋であった。二人は仲睦まじく逢瀬を重ね、愛を確かめ合っていたが、ある時突然ジェレミー演じるエドが死んだという知らせが入る。
信じられないエイミー。エドは心優しき人で、それまでにもエイミーに手紙や贈り物などを送っていたが、なんと彼の死後もエイミーのもとに様々なものが送られてくる。
その謎を解き明かすために、ヨーロッパの各地を旅するエイミー。
彼から送られてくるメッセージは不可解で、彼女を混乱させる。ネタバレになるので詳しくは書かないが、エドは彼女に限りない愛のメッセージを送り続けていたのである。
彼の存在が消えても、エイミーの心の中にずっとエドは居続ける。夜空にきらめく星のように永遠に消えないものとして。

とても良い映画であった。しかし、私は非常に観ているのが苦痛であった。
その理由は、これが愛に出会った者の映画だったからだろう。それも、自分のエゴを超えた大きな愛。
愛する者の死はとても辛い。辛いが、愛する者に出会ったことがない、愛を知らない、真に愛し合ったことのない者は、もっと辛い。エイミーは幸せ以外のなにものでもないではないか。
彼の死を悼めるなんて。彼のために美しい涙を流すことができるなんて。そして、大好きな彼から一生ものの愛を捧げられるなんて。
そう思ってしまった私は卑屈なのだろうか。愛の不在とは、愛する者の存在が消えてしまうことではない。初めから存在しない、愛の対象にもなり得ない、それが愛の不在である。
これは映画だからありえるお話なのである。現実はもっと残酷だ。

私は、本当の抱擁を知らない。愛のあるセックスも知らない。本当に求めた人の手にも肌にも触れたことがない。大体が、自分がすべてを与えたいと思う相手に出会うこと自体が稀なのだ。
エイミーは最初からそんな相手に出会えているのだから、もう充分に幸せではないか。
空想や妄想の中で人を愛することの虚しさといったらない。想い出も何もない。あるのは自分を慰める卑しき手だけだ。
私は本当にこの映画を観なければよかったと思っている。確かにとてもロマンティックで素敵な映画だが、孤独な私はどうすればいいのか。そんなことを思って絶望してしまった。
エイミーの悲しみは美しくあったであろう。しかし、愛する者から存在さえ知られていない、ただ息の詰まるような思いを巡らす孤独な人々の悲しみの夜を思い浮かべてほしい。そこに広がる果てのない灰色を。
私は超・現実主義者である。人生の中で、かけがえのないものを手に入れた彼女が率直に羨ましい。けれど、やはりこれは映画の世界だから。
私は、この映画を鑑賞したあと、ある記憶を抹消した。それは、私には手の届かないもので、もう二度と出会うことのないものだった。
誰も知らない、私が涙を流したことを。誰も知らない、私が愛したことを。
さよなら、私の中の愛。一方通行の愛。これは、誰にも読まれなかった愛の手紙である。いま、それを破り、燃やした。孤独というのはなんと冷たいのだろう。私は生きていかなければならない。たとえ、凍えるような寒さの中に一人でも。

 

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