『エンドレス・ワルツ』レビュー

たまらなく愛しい映画。何度も何度も抱いた映画。
激しく、求め、快楽の海に投げ込まれ、葛藤し、激情の渦のなかで、私は涙し続けた。

さて、映画『エンドレス・ワルツ』(若松孝二監督・1995年)である。
とっても狂気でカオスな愛だけれど、私はこの作品が好き。
私がまず最初に出会ったのは、本作の原作である稲葉真弓の小説だった。当時13歳だった。
それは偶然ひらいた文芸雑誌に紹介されていた。カラーで映画公開の紹介ページがあり、その写真に何故か惹かれるものがあった。
二人の裸の男女。多感に目覚めていた思春期の私が、そこに何を感じたのか今になってはわからない。
単なる性的な興味、好奇心だったのかもしれない。だが、何かそれだけではないものを感じて小説を手に入れた。
まだ少女ともいえる私が読んで感じたことは、月並みな言い方だが衝撃を受けたということだ。
通俗的な愛とはちがう、普通ではないということはすぐにわかった。体の奥から言い知れぬ、なんともいえない感情が沸き上がった。
うまく言葉には出来ないが、自分の中にある固定概念がひっくり返るほどのショックだったのである。

鈴木いづみ。元女優で類まれなる才能であった文筆家を広田玲央名が演じている。
そして、天才アルトサックス奏者と呼ばれた阿部薫を、現在は芥川賞作家である町田康が熱演。
二人の男女が出会い、織りなす愛(というか半分、狂気だ)は、激しい闘いのようである。見ていて辛くなる程に、生身の、剥き出しの二人に圧倒される。
薫は狂ってる。そして、嫉妬深い。いづみをつけまわすしつこさと、いづみの過去にいちいち嫉妬する。
二人はわずかな関係期間ののち結婚するのだが、いづみのそれまでの男関係を追及する薫は本当にしつこい。
非常に鬱陶しい男だが、私はこんなに男に執着されるほど嫉妬されたことがないから少し羨ましくも感じてしまった。
愛と憎しみは表裏一体なのだろうか、薫はいづみの才能にも強く嫉妬する。
「君は大衆消費文化の奴隷になっているんだ!」といづみを批判する。しかし、これはいづみの才能、自分にはないものに対する羨望の裏返しなのだ。
薫はいづみの書いた原稿を捨ててしまったけれど、実は大事に隠し持っていた。
『娼婦になれなかったら、母親になるしかない』
いづみの書いた言葉だ。私はこれを凄い、と思う。そして、薫も口ではさんざんいづみのことを非難しながら、本当はいづみの才能を高く認めていたのだった。

いづみと薫の生活は、アルコールやドラック、性にまみれていた。
ある時、躁状態になったいづみが愛の証として自分の足の小指を包丁で切り落とす。薫は、それを笑って見ている。これがノンフィクションなのだから、おののいてしまう。
いづみは薫の子供を宿すが、二人は離れていく。薫がサックスを手に各地を巡業しているあいだ、いづみは書くことに励んだ。
薫がまた帰ってくると、二人は愛し合うが、ブロバリンを大量に飲んで薫は死んでしまった。
一人取り残されたいづみは、心がぽっかり空いてしまう。まるで、自分の体の半分、魂の半分、もう一人の分身を失くしたかのように空虚になってしまったのだ。
相変わらず男と寝ても、娘がいても、それは埋まらなかった。いづみは幻を見るようになる。薫の亡霊だ。
そして、彼女は首を吊って死んでしまった。まだ幼い娘のいる前で…。

この映画を久々に観たが、主演の二人の存在感がすごい。なにか一瞬たりとも見逃したくない魅力がある。
愛の形は人さまざまだが、こんな愛もあるのかと思わせる二人である。ありきたりなラブロマンスに飽きてしまった人は(覚悟を持って)観てほしい。
傷つけ合いながらも、誰よりも互いを必要とした、激しい愛の物語を堪能していただきたい。

 

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